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2017-10

日本古代史④~天智天皇と天武天皇~ - 2017.07.10 Mon

わずか2代で終わった隋と比べ、
唐は日本人にとっては現在でも中国の代名詞であり、
外来のものと言う広義の意味でも用いられ、
「唐辛子」「唐揚げ」「トウモロコシ」などの言葉が残っています。

日本は隋に引き続き唐とも交流を始めますが、
朝鮮三国が従来通り朝貢を行い冊封を受けたのに対して、
日本は既に冊封を抜けていました。
また朝鮮半島では北の高句麗と南の百済に比べ、
押され気味であった新羅が国境を接する高句麗に対応するため
唐と軍事的な同盟を結びました。

新羅が百済を攻めると唐も援軍を送り、百済が滅ぼされてしまいます。
日本と百済は友好国であり、朝鮮南部は大和政権の支配的地域でした。
日本が度々、遣隋使を送った一つの理由は
中国皇帝に朝鮮半島南部の支配圏を認めさせることにありました。
朝鮮半島が日本列島に伸びているという地政学的関係、
そして、朝鮮では日本で取れない鉄がよく取れ
これを輸入する事で大和政権は地域の影響力を保持してきたので、
ここを失うわけにはいきません。
中大兄皇子は百済復興のために、百済の敗残兵と共に朝鮮に兵を送ります。
こうして新羅・唐連合と百済・日本連合両軍による白村江の戦いが起こります。
ついに日本は中国の大国と戦場で相まみえることになったのです。

白村江の戦い

斉明天皇は戦争に備えて九州筑紫に移動しましたが、
遠征の軍が出発する直前に亡くなってしまいます。
中大兄皇子は母の死を持ってもまだ即位しませんでした。
天皇不在のまま二年ほど互角に戦ったものの日本・百済連合が敗北します。
百済は完全消滅し、日本は朝鮮半島における足がかりを完全に失い
現在の基本的な国境線、
つまり島国としてのアイデンティティーが形成されるきっかけになりました。

中大兄皇子は唐が朝鮮半島での勢いを持って、
日本列島に攻め入る事を恐れて、都を飛鳥からさらに内陸の近江(現:滋賀県大津市)に移し、
ここでようやく天智天皇として即位することになります。
九州筑紫に水城を作り、防人をおいて唐の侵攻に備えましたが、
唐は海を隔てた日本に侵攻することなく、陸続きの高句麗を攻めて
ついに朝鮮半島は新羅によって統一されることになります。

天智天皇は敗戦後、遣唐使を送り関係改善に努め、
内政では冠位をそれまでの十九階から二十六階へ拡大したり、
日本最古の全国的な戸籍「庚午年籍」を作成し、
公地公民制が導入されるための土台を築きました。
また、漏刻(水時計)を作って国民に時を知らせたと言われています。
盟友、中臣鎌足が亡くなる前日に内大臣に任命し「藤原」姓を与え
自身が病に倒れると弟の大海人皇子を皇太子として政治を任そうとしますが、
大海人皇子はそれを断り、吉野に赴いて僧侶となりました。
天智天皇は息子の大友皇子を後継者とします。

天智天皇の死後、大友皇子が24歳の若さで弘文天皇として即位、
それに反旗を翻したのが僧侶になった大海人皇子でした。
大友皇子を倒し、壬申の乱に勝利した大海人皇子は第40代天武天皇となります。
兄の天智天皇の時代は
唐という強国と朝鮮半島で対峙する厳しい時代でしたが、
弟の天武天皇の時代は
唐と半島を統一した新羅が国境を接するようになり関係が悪化、
両国とも日本に通行を求めてくるなど外交的には優位な立場にありました。

天武天皇は低姿勢な新羅の使者とやりとりする一方で
唐には使者を送らないなど、大国としての体面を繕いました。
国内では唐の律令制度を取り入れ、飛鳥浄御原令
日本初の本格的な唐風都城、藤原京を作らせ、
歴史書として「古事記」「日本書紀」の編纂に着手します。

また、天武天皇は始めて「天皇号」を公的に用いた天皇であるとされ、
ほぼ同時期に国号を「日本」とするようになったと言われています。
新羅や後の高麗など朝鮮半島がその後も冊封を受け続け、
「朝鮮」(朝貢が少ない)という国号も中国皇帝が決めたのに対し、
「倭国王」から皇帝に勝るとも劣らない万物を支配する皇帝の意味をもつ「天皇」へ、
「倭国」から太陽信仰を背景に太陽に近いという意味の「日本」へと改めるなど
独自性を発揮し始めます。
もちろん、「日本」は中国から見て東方にあるという意味にも取れ、
「天皇」は元々儒教の三皇(天皇、地皇、人皇)の一人であり、
唐の三代皇帝高宗も自称しましたが定着もしなかったため
中国目線で見ても反発しにくい微妙なラインを狙ったとも言えます。
このように天武天皇は唐に習った律令国家を整備しながら脱中華を目指しました。



天武天皇の崩御後、皇后の持統天皇が政策を引き継ぎ、
飛鳥浄御原令の制定と藤原京の造営を完成させました。
藤原京に遷都した持統天皇は孫である文武天皇に15歳という先例のない若さで譲位し、
自ら初の太上天皇(上皇)となり後見役につきました。
この背景には皇位継承において兄から弟で継ぐか、親から子、孫へ継ぐか
論争が起こり、収集がつかなくなった際に
天智天皇の子でありながら皇位を継げなかった
大友皇子(弘文天皇)の第一皇子である葛野王
「わが国では、天位は子や孫がついできた。
もし、兄弟に皇位をゆずると、それが原因で乱がおこる
この点から考えると、皇位継承予定者はおのずから定まる」
という主旨の発言を行ったことで決着した事があります。
天武天皇と持統天皇の子である草壁皇子が早世していたために
孫である文武天皇が即位することになりました。
天武・持統朝は兄である天智天皇の子を倒して皇位を継承したので
なんとも皮肉な展開ですが、
これは中臣鎌足の子である藤原不比等の入れ知恵があったとも言われています。

この文武天皇の即位間に大宝律令が完成します。
律令とは古代アジアにおける法律であり、現代で言うところの憲法です。
これによって大和政権は広く日本列島を支配する律令国家として完成しました。
また我が国の国旗である日の丸の意匠が登場したのも
この文武天皇の朝賀の儀であったと続日本記に書かれています。

大宝律令は奈良時代に改正され養老律令が出されるも
大きな変化ではなく、この律令制度は明治になり大日本帝国憲法が出来るまで存続しました。
大宝律令は大化の改新に次ぐ日本古代史のターニングポイントであり、
大化で始まった元号は断絶状態でしたが、
大宝以降は現在の平成まで途切れることなく続いています。

また、古事記、日本書紀の編纂、藤原京、大宝律令など
これらの背後には中臣鎌足を祖とする藤原氏の存在が見え隠れしており、
その後、天皇に次ぐ権力者として栄華を極めることになります。

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このように聖徳太子、推古天皇から始まり、天智天皇、天武天皇の時代を経て
飛鳥時代を通して、徐々に日本の骨格が築き上げられました。
白村江の戦いの敗北により、大和政権は朝鮮半島から手を引き日本海を境界とします。

中国の王朝は飛鳥時代に随から唐へ変わり、その後幾度も王朝が途絶えますが、
日本国内では数々のクーデターが起こりながらも、皇室は男系男子で現在まで受け継がれています。
蘇我氏は天皇にならなかった聖徳太子の子孫は根絶やしにしましたが、
天武天皇でさえ、天智天皇の子孫は朝廷に引き続き置いていました。
そして、この事が後の皇位継承に大きく貢献することになります。
やはりこれも和の精神の発露であり、
この意味でも中国と日本の分かれ目になったと言えます。

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