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2017-07

日本古代史③~聖徳太子と大化の改新~ - 2017.07.09 Sun

●飛鳥時代
崇峻天皇5年(592年)から和銅3年(710年)の118年間にかけて
飛鳥(現:奈良県高市郡明日香村)に宮・都が置かれていた時代が飛鳥時代です。
その草創期は古墳時代終末期と重なり、
戦前は一括して「大和時代」と呼ばれていました。

飛鳥時代は神話から歴史に切り替わる重要な時代であり、
この時代の始まりを象徴する人物が聖徳太子です。
聖徳太子は天皇を中心とした中央集権国家体制の確立を図った
日本古代史の最重要人物です。



聖徳太子の大きな功績の一つが仏教の普及です。
百済王から仏像と経典が献上され、
日本列島に仏教が伝わった時、国内で論争が起きました。
古来からの神道を守り、仏教を排撃すべきとした物部氏
帰化人と近く、仏教を保護しようとした蘇我氏
天皇の仏教帰依の是非について対立したのです。
聖徳太子は蘇我氏側付き物部氏を滅ぼすと、法隆寺や四天王寺を建て、
蘇我馬子も法興寺を建て、飛鳥は仏教の中心地となりました。



蘇我氏と聖徳太子は協力して仏教振興を行いましたが、
物部氏亡き後、政治的実権は蘇我馬子が掌握していました。
そんな馬子を快く思っていなかった崇峻天皇は馬子の暗殺をほのめかしたため、
恐れんだ馬子の差金で暗殺されてしまいます。
長い皇室の歴史の中でも崇峻天皇暗殺された唯一の天皇と言われています。
蘇我馬子は蘇我氏の血を継ぐ推古天皇を即位させました。
推古天皇は日本初の女帝であり、東洋初の女性君主でもあります。
現在、女系天皇容認論や眞子内親王殿下のご婚約に伴う女性宮家の創設など
女性皇族が話題になることが多いですが、
推古天皇は女性天皇であって女系天皇ではありません。
男系男子が皇位を継ぐまでの中継ぎとして即位しましたが、
バランス感覚に優れた人物とされ、
蘇我氏の思惑に関わらず、聖徳太子と蘇我馬子の両勢力の均衡を保ちました。

聖徳太子は推古天皇の皇太子として摂政を行うことになります。
冠位十二階では生まれに関係なく、能力のあるものが役人として出世するシステムを作り、
十七条の憲法では「和を以て貴しと為す」に始まる役人の心構えを示しました。
これらは現在まで脈々と受け継がれる日本式民主主義の発芽でもあります。
仏教を厚く信仰することはもちろんですが、蘇我氏と違うのは尊皇の姿勢でした。
聖徳太子は仏教同様に日本固有の神道も守ろうとしていたのです。
蘇我馬子は自身の利権が損なわれるとして、
太子の行う天皇集権に密かに危機感を抱いていました。

この時代、朝廷が仏教を保護したり、中央集権的な政策を打ち出したのは何故か?
それは何より、隋による300年ぶりの中国統一が背景にあります。
それまで中国が分裂状態であったため、国内政治に集中すればよかったのですが、
中国統一によって強力な国家が生まれ、
朝鮮半島や日本列島を含む地域に政治的軍事的な圧力を強める可能性が出てきました。
日本はこうした危機から独立を守るために早急に中央集権化を進め、
仏教などの海外の優れた文明を受け入れ、
随に向けて優れた文明国である事をアピールしようとした訳です。

聖徳太子は遣隋使として小野妹子を派遣しています。
この時、「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや・・・」と始まる
有名な国書を隋の皇帝煬帝に手渡しますが、これを見た煬帝は激しく怒ります。
「天子」とは中国皇帝のみを指す言葉であり、
他国の王がその名を語ることはあってはならないことでした。
しかし、隋はこの頃高句麗侵攻を予定しており、
日本が高句麗と結びつくことを恐れたため小野妹子も穏便に返されました。

なぜわざわざ怒らせるような真似をしたのか?
これは中国と対等な関係を築きたいという日本側の意思表明であり、
冊封体制の拒絶を意味します。
また当時の微妙なアジア世界のパワーバランスの中で
日本側も最低限友好的に「朝貢」という態勢をとったため
最悪の事態にはならず、中国皇帝も黙認状態となりました。
しかし、遣隋使の一番大きな目的は
随の優れた文明を学んで日本に持ち帰ることだったので、
外交関係を過度に刺激するわけにはいかず、
その後の日中関係は絶妙なバランスを取りながら展開されます。

隋はその後、三度に渡り高句麗遠征を行いますが失敗し、
煬帝が殺されて、わずか二代で崩壊、新たにが興ります。
国内では聖徳太子と推古天皇が亡くなり、再び蘇我氏が専横な振る舞いを行います。
蘇我氏は蘇我氏系の舒明天皇を即位させ、
舒明天皇の死後は皇后が皇極天皇となり再び女性天皇が誕生しますが、
蘇我蝦夷が自ら国政を執り、紫の冠を私用したり、
聖徳太子の子・山背大兄王一族を滅ぼすなど蘇我氏の専横はさらに激しくなります。



蘇我氏に滅亡させられた物部氏と近く、
藤原氏の祖となる中臣鎌足は後の天智天皇である中大兄皇子と共謀して、
蘇我入鹿を皇極天皇の御前で殺害し、その父である蘇我蝦夷を自殺に追いやり、
半世紀にも続いた蘇我氏体制を崩壊させました。
皇極天皇は息子である中大兄皇子に皇位を譲ろうとしましたが、
皇極天皇の弟(孝徳天皇)に皇位を譲り、自らは皇太子として次々と改革を進めます。
これを大化の改新と呼びます。
大化は現在の平成まで続く元号の始まりでした。

孝徳天皇没後も母である皇極天皇(斉明天皇)を再び即位(重祚)させ、
中大兄皇子はまたしても皇太子として政務を行います。
中大兄皇子が長い間皇位につかなかった事は
7世紀中葉の政治史における謎の一つであり、定説はありません。
「天皇になるためクーデターを起こした」という批判を免れるためとも言われますが、
これは完全に聖徳太子を模倣したやり方でした。
日本は大化の改新によって心機一転、天皇を中心とする中央集権化を進めて、
再び新たに興った唐との関係を構築していくのでした。

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このように聖徳太子は西洋史におけるイエス・キリスト並の影響力を誇ります。
それは新約聖書同様に日本書紀のかなりの部分に
聖徳太子の記述が見られることからも明らかであり、
奇しくも両名とも馬小屋で生まれた(厩戸皇子)という伝承があります。
また1984年に発行された福沢諭吉に変わるまで
日本の最高紙幣には聖徳太子が描かれており、
その他の旧紙幣にも採用されるなど現代人にも馴染みの深い存在でしたが、
現在の紙幣には聖徳太子はなく、
福沢諭吉や野口英世などフリーメイソンメンバーが採用され、
近年、教科書で「聖徳太子」の名を排して「厩戸皇子」を使う動きが出たり、
その伝説の数々から非実在論が存在するなど、
国民の記憶から消し去ろうという傾向が見られます。

十七条の憲法の第一条で和の精神を最も重い日本の価値であると定め、
神道と仏教の共存を図った聖徳太子がいなければ今の日本は存在しなかったのです。

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