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2017-07

ブログ概要。 - 2037.02.22 Sun

はじめまして!ここはマンマルXのブログです!

当サイトは国際問題などの政治ネタを中心に
歴史、宗教から陰謀論、ミリタリーまで話題は多岐にわたりますが、
真の目的は国民主権の民主主義国家である我が国において
政治に関心のないノンポリ層をなくそうというものです。(`・ω・´)
※ノンポリ(nonpolitical)=政治運動に興味のない人

私はいわゆる「ゆとり」と呼ばれる世代ですが、
同年代の若者の政治離れが著しく、施政者との溝は深まるばかりです。
将来、誰が私たちの暮らしを守っていくのでしょう?
このまま日本を放置するわけにはいきません。
この憂国の気持ちから「ゆとり世代の憂国ブログ」を始めます!

私は幸いにも義務教育期間に自虐史観から解放され、
歴史や政治への関心は人一倍強くなりました。
まずは「ゆとり教育」を推進した
日教組による自虐史観からの解放が第一です。

★ブログの見方(カテゴリ紹介)
まずは自己紹介替わりに自分史
次に政治思想を過去記事から順に見て基礎知識を習得、
その後、日本近代史を読破すれば自虐史観から離脱ですw

しかしゴールという訳ではありません。政治や歴史は現在進行形です。
国内国際全般というざっくりしたくくりと
極東アジア欧米中東アラブの地域別に時事問題を随時更新
また、もっとディープな内容(陰謀論)
国際全般からはユダヤ、国内からは菊タブーがあります。
戦史やミリタリー好きの人は戦争・兵器カテゴリもオススメです。

最新世界地図2016

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日本古代史⑤~シルクロードの終点~ - 2017.07.18 Tue

●奈良時代
奈良時代は、710年(和銅3年)に元明天皇によって平城京に遷都してから、
794年(延暦13年)に桓武天皇によって平安京に都が遷されるまでの84年間、
奈良に都が置かれた時代です。



既に天武天皇によって683年頃から計画が進められ、
皇后の持統天皇在位中の704年(慶雲元年)に完成した藤原京がありますが、
藤原京完成の4年後の708年(和銅元年)には元明天皇より遷都の勅が下り、
6年後の710年(和銅3年)に平城京に遷都されました。
なぜ早々と飛鳥から奈良に遷都したのでしょうか?

主な遷都理由として、
藤原京が白村江の戦いなど唐との交流が途絶えた時期に作られたこともあって、
モデルとしていた唐の長安との差は歴然としたのもがあった事。
また南から北にかけて傾斜している立地のため、
北にある皇居を南の臣下が見下ろすという問題、
また現実的な問題として排水問題が挙げられます。
奈良が選ばれた理由は
藤原京から近く、短期間で移築が可能だったことに加え、
三方を山に囲まれた四神相応の地であり、
風水的に理想な土地と考えられたことです。
唐から輸入された風水思想はその後日本で独自に進化して陰陽道が生まれます。

しかし、やはりここにも藤原氏の影が見えます。
藤原京で生涯を過ごした文武天皇は藤原不比等の娘宮子と結婚し、
後の聖武天皇である首皇子が誕生しますが、
文武天皇が崩御した時まだ7歳と幼かったため
文武天皇の母である元明天皇(女帝)が中継ぎとして即位します。
この元明天皇をバックアップして
平城京遷都に大きな役割を担ったのが藤原不比等です。
元明天皇在位中には我が国最古の貨幣和同開珎が鋳造され、
天武天皇の時代から編纂が行われていた古事記が完成します。

平城京に遷都した元明天皇は老いを理由に退位をしますが、
病弱であったこと、また皇親勢力と外戚である藤原氏との対立の影響もあり、
藤原氏の血を継ぐ首皇子の即位は再び延期となり、
娘であり、文武天皇の姉であった氷高皇女が元正天皇として即位することになります。
これは歴代天皇の中で唯一、母から娘への皇位継承であり、
また元正天皇は皇后を経ずに独身で女帝となり生涯結婚しませんでした。
これを持って女系天皇であると言われることがありますが、
元正天皇の父は天武天皇の子である草壁皇子であるため
正しくは男系の血筋をひく女性皇族間の皇位継承であり、これもあくまで中継ぎです。
元正天皇の在位中には飛鳥時代の大宝律令を
国内事情に合わせて改正した養老律令が作られ、
日本書紀が完成しますが、これらを主導したのも藤原不比等でした。

藤原不比等といえば前回書いたとおり、
未亡人である持統天皇と協力して天武天皇の孫である幼い文武天皇を即位させました。
そして今度も未亡人である元明天皇と非常に近い関係にありました。
不比等が実務に長けていたのは間違いないですが、
天武天皇の崩御後、天武天皇の築いた皇親政治からの離脱を意図し、
自分の子女を天皇と政略結婚させたり、
女帝を利用して自ら朝廷の実権を握ろうとしていました。
自らの権威付けのために天武天皇の影響の強い藤原京から
自らが支配する都を新たに必要としたのではないでしょうか?



ようやく聖武天皇が即位した時には
不比等が死に、代わりに右大臣となった長屋王が政権を握ることになります。
父は天武天皇の長男の高市皇子、
母は天智天皇の皇女の御名部皇女と正統に近い存在でしたが、
聖武天皇が母である藤原宮子を尊んで
「大夫人」と称する旨の勅を発すと長屋王は反発します。
当時、朝廷内部には母が皇族でない聖武天皇は天皇として相応しくないという意見もあり、
皇親派の長屋王と藤原不比等の子、藤原四兄弟
これを期に対立していくようになります。
政略により長屋王は自殺に追い込まれ、藤原四兄弟が政権を奪い
妹で聖武天皇の夫人である光明子臣下で最初の皇后とすることに成功します。
こうして藤原一族は皇室の権威を我がものにしますが、
その後、藤原四兄弟が相次いで天然痘によって死亡。
これは自殺に追い込まれた長屋王の呪いであると恐れられました。

その後、朝廷内に再び反藤原勢力が台頭し、
橘諸兄が遣唐使の経験もある僧侶玄昉をブレーンとして聖武天皇を補佐しますが、
藤原四兄弟、三男藤原宇合(藤原式家)の長子藤原広嗣はこれを良しとせず、
藤原政権再興を目指して九州の大宰府で挙兵しました。
乱は鎮圧され、藤原式家は平安時代に入るまで表舞台に現れなくなります。

この反乱は聖武天皇を恐れさせ、平城京を留守にして遷都を繰り返すことになります。
これは平城京の民衆の不安を煽りました。
聖武天皇在位中には藤原広嗣の反乱のみならず、
大規模な疫病相次ぐ地震により、社会不安が蔓延していました。
かねてから仏教に傾倒していた聖武天皇はこの状況を収めるため、
仏教の力を持って国家安泰をもたらす鎮護国家を目指して
全国に国分寺の建立を命じ、その総本山として平城京に東大寺が建てられました。

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「奈良の大仏」として現在でも有名な東大寺大仏が752年(天平勝宝4年)に完成しますが、
聖武天皇は大仏の完成を待つことなく娘に譲位し、出家してしまいます。
聖武天皇は藤原氏の血を継ぐ跡取りとして幼い頃から期待されたものの、
朝廷内での争いによって即位が遅れ、いざ即位すると反乱や災害など不運に見舞われ、
天皇という職務の重圧に耐えきれなかったのかもしれません。
皇子も早くに亡くし光明皇后との間には跡取りができなかったため、
阿倍内親王を女性で唯一の皇太子としますが、その場しのぎの対策であり、
阿倍内親王が孝謙天皇として即位してからも
称徳天皇として崩御するまで皇位継承問題は継続しました

東大寺大仏完成時には新たに即位した孝謙天皇、
そして太上天皇となった先代の聖武天皇臨席のもと、盛大な開眼供養がおこなわれました。
開眼導師としてインド出身の僧菩提僊那が招かれ、
唐や新羅、ベトナムなど外国の舞も奉納されるなど
現在のオリンピックや万博のような国際的一大イベントでした。



大仏完成の二年後には唐からも鑑真が来日するなど、
奈良時代は唐や新羅とも交流が盛んで国際色豊かな時代でもありました。
東大寺大仏殿の北北西に位置する正倉院には
日本製のみならず中国(唐)や西域、ペルシャなどからの輸入品を含めた
絵画・書跡・金工・漆工・木工・刀剣・陶器・ガラス器・楽器・仮面などが保管されており、
奈良はシルクロードの東の終点として、当時から国際的な都市であったことが伺えます。

皇位継承問題において継承順位も決して高くなく注目もされていなかった
天武天皇の皇子・舎人親王の七男であった大炊王が淳仁天皇として即位します。
推薦したのは不比等の長男藤原武智麻呂(藤原南家)の次男藤原仲麻呂であり、
実質、淳仁天皇は仲麻呂の傀儡でした。
一方退位した孝謙上皇は僧侶であった道鏡を寵愛し、政治に参加させましたが、
これを快く思わない仲麻呂は淳仁天皇を通して意見したため
孝謙上皇と淳仁天皇の対立が浮き彫りとなりました。

孝謙上皇は天武系の傍流の淳仁天皇を臣下と見なし、
淳仁天皇は自らを孝謙天皇の皇太子ではなく、聖武天皇の皇太子であると考えていました。
血筋の離れた二大権力の発生によって皇室における上下関係の認識のズレが生じたのです。
藤原仲麻呂は武力によって政権を奪還しようと
藤原広嗣と同じように反乱を起こしますが、これに失敗し、
仲麻呂と近かった淳仁天皇は廃位されて淡路島へ流罪となりました。
廃位された天皇は二名だけなので非常に稀なケースです。

孝謙上皇は重祚して称徳天皇となりますが、
結局、独身の女帝では後継者はなく
相次ぐ反乱と粛清のため、天武天皇直系の男系男子も不在となってしまいました。
孝謙上皇(称徳天皇)の右腕だった道鏡は法王となり、天皇になる野望を持ち始めます。
大宰府の主神であった中臣習宜阿曾麻呂
宇佐八幡宮の神託であるとして、
「道鏡を皇位に就かせれば天下太平になる」と称徳天皇に奏上しますが、
和気清麻呂がこれを阻止したことで、道鏡は失脚、一先ず皇統の断絶は阻止されました。

称徳天皇崩御後、妃が聖武天皇の第1皇女であり
その子である他戸親王が女系ではありますが、天武の血を継ぐ男子となるため
天智系でありながら白壁王が光仁天皇として即位することになります。
こうして称徳天皇は争い続きだった天武系最後の天皇となり、
女帝も称徳天皇以降、江戸時代初期に即位する第109代明正天皇まで、
850余年立てられることはありませんでした。

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古代は何かと朝廷内でドロドロというイメージがありますが、
今回の藤原不比等にしても天皇を倒して自らその地位に上がることはせず、
娘を天皇妃とする事で天皇家と融合する道を選びました。
天皇を暗殺した蘇我馬子でも皇位には付かず
欽明天皇の子で蘇我氏の血を継ぐ推古天皇を即位させています。
その後の皇極天皇、斉明天皇、持統天皇、元明天皇、元正天皇・・・と
相次ぐ女帝の期間は蘇我氏や藤原氏などが権威を振るった所もありますが
その支配は長く続かず、結局皇位は男系男子で継承されています。

元々の大和朝廷は地方の豪族の寄せ集めであると言われていますが
天皇家の男系男子継承
国家として統一するための条件であり、
分裂を回避するための古代人の知恵だったのかもしれません。
そういう意味でも天皇の存在は
和の精神そのものを体現していると言えるのではないでしょうか?
女系天皇容認論がいかに危ういかはこうした歴史を見れば見えてきます。

そして奈良時代は仏教の力が相当強かったという事が
聖武天皇の政策や玄昉、道鏡という僧侶の政治参画で分かります。
これは天皇中心に進めてきた律令体制の揺らぎであり、
桓武天皇による平安京遷都の動機、つまり平安時代へと続いていくのです。

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日本古代史④~天智天皇と天武天皇~ - 2017.07.10 Mon

わずか2代で終わった隋と比べ、
唐は日本人にとっては現在でも中国の代名詞であり、
外来のものと言う広義の意味でも用いられ、
「唐辛子」「唐揚げ」「トウモロコシ」などの言葉が残っています。

日本は隋に引き続き唐とも交流を始めますが、
朝鮮三国が従来通り朝貢を行い冊封を受けたのに対して、
日本は既に冊封を抜けていました。
また朝鮮半島では北の高句麗と南の百済に比べ、
押され気味であった新羅が国境を接する高句麗に対応するため
唐と軍事的な同盟を結びました。

新羅が百済を攻めると唐も援軍を送り、百済が滅ぼされてしまいます。
日本と百済は友好国であり、朝鮮南部は大和政権の支配的地域でした。
日本が度々、遣隋使を送った一つの理由は
中国皇帝に朝鮮半島南部の支配圏を認めさせることにありました。
朝鮮半島が日本列島に伸びているという地政学的関係、
そして、朝鮮では日本で取れない鉄がよく取れ
これを輸入する事で大和政権は地域の影響力を保持してきたので、
ここを失うわけにはいきません。
中大兄皇子は百済復興のために、百済の敗残兵と共に朝鮮に兵を送ります。
こうして新羅・唐連合と百済・日本連合両軍による白村江の戦いが起こります。
ついに日本は中国の大国と戦場で相まみえることになったのです。

白村江の戦い

斉明天皇は戦争に備えて九州筑紫に移動しましたが、
遠征の軍が出発する直前に亡くなってしまいます。
中大兄皇子は母の死を持ってもまだ即位しませんでした。
天皇不在のまま二年ほど互角に戦ったものの日本・百済連合が敗北します。
百済は完全消滅し、日本は朝鮮半島における足がかりを完全に失い
現在の基本的な国境線、
つまり島国としてのアイデンティティーが形成されるきっかけになりました。

中大兄皇子は唐が朝鮮半島での勢いを持って、
日本列島に攻め入る事を恐れて、都を飛鳥からさらに内陸の近江(現:滋賀県大津市)に移し、
ここでようやく天智天皇として即位することになります。
九州筑紫に水城を作り、防人をおいて唐の侵攻に備えましたが、
唐は海を隔てた日本に侵攻することなく、陸続きの高句麗を攻めて
ついに朝鮮半島は新羅によって統一されることになります。

天智天皇は敗戦後、遣唐使を送り関係改善に努め、
内政では冠位をそれまでの十九階から二十六階へ拡大したり、
日本最古の全国的な戸籍「庚午年籍」を作成し、
公地公民制が導入されるための土台を築きました。
また、漏刻(水時計)を作って国民に時を知らせたと言われています。
盟友、中臣鎌足が亡くなる前日に内大臣に任命し「藤原」姓を与え
自身が病に倒れると弟の大海人皇子を皇太子として政治を任そうとしますが、
大海人皇子はそれを断り、吉野に赴いて僧侶となりました。
天智天皇は息子の大友皇子を後継者とします。

天智天皇の死後、大友皇子が24歳の若さで弘文天皇として即位、
それに反旗を翻したのが僧侶になった大海人皇子でした。
大友皇子を倒し、壬申の乱に勝利した大海人皇子は第40代天武天皇となります。
兄の天智天皇の時代は
唐という強国と朝鮮半島で対峙する厳しい時代でしたが、
弟の天武天皇の時代は
唐と半島を統一した新羅が国境を接するようになり関係が悪化、
両国とも日本に通行を求めてくるなど外交的には優位な立場にありました。

天武天皇は低姿勢な新羅の使者とやりとりする一方で
唐には使者を送らないなど、大国としての体面を繕いました。
国内では唐の律令制度を取り入れ、飛鳥浄御原令
日本初の本格的な唐風都城、藤原京を作らせ、
歴史書として「古事記」「日本書紀」の編纂に着手します。

また、天武天皇は始めて「天皇号」を公的に用いた天皇であるとされ、
ほぼ同時期に国号を「日本」とするようになったと言われています。
新羅や後の高麗など朝鮮半島がその後も冊封を受け続け、
「朝鮮」(朝貢が少ない)という国号も中国皇帝が決めたのに対し、
「倭国王」から皇帝に勝るとも劣らない万物を支配する皇帝の意味をもつ「天皇」へ、
「倭国」から太陽信仰を背景に太陽に近いという意味の「日本」へと改めるなど
独自性を発揮し始めます。
もちろん、「日本」は中国から見て東方にあるという意味にも取れ、
「天皇」は元々儒教の三皇(天皇、地皇、人皇)の一人であり、
唐の三代皇帝高宗も自称しましたが定着もしなかったため
中国目線で見ても反発しにくい微妙なラインを狙ったとも言えます。
このように天武天皇は唐に習った律令国家を整備しながら脱中華を目指しました。



天武天皇の崩御後、皇后の持統天皇が政策を引き継ぎ、
飛鳥浄御原令の制定と藤原京の造営を完成させました。
藤原京に遷都した持統天皇は孫である文武天皇に15歳という先例のない若さで譲位し、
自ら初の太上天皇(上皇)となり後見役につきました。
この背景には皇位継承において兄から弟で継ぐか、親から子、孫へ継ぐか
論争が起こり、収集がつかなくなった際に
天智天皇の子でありながら皇位を継げなかった
大友皇子(弘文天皇)の第一皇子である葛野王
「わが国では、天位は子や孫がついできた。
もし、兄弟に皇位をゆずると、それが原因で乱がおこる
この点から考えると、皇位継承予定者はおのずから定まる」
という主旨の発言を行ったことで決着した事があります。
天武天皇と持統天皇の子である草壁皇子が早世していたために
孫である文武天皇が即位することになりました。
天武・持統朝は兄である天智天皇の子を倒して皇位を継承したので
なんとも皮肉な展開ですが、
これは中臣鎌足の子である藤原不比等の入れ知恵があったとも言われています。

この文武天皇の即位間に大宝律令が完成します。
律令とは古代アジアにおける法律であり、現代で言うところの憲法です。
これによって大和政権は広く日本列島を支配する律令国家として完成しました。
また我が国の国旗である日の丸の意匠が登場したのも
この文武天皇の朝賀の儀であったと続日本記に書かれています。

大宝律令は奈良時代に改正され養老律令が出されるも
大きな変化ではなく、この律令制度は明治になり大日本帝国憲法が出来るまで存続しました。
大宝律令は大化の改新に次ぐ日本古代史のターニングポイントであり、
大化で始まった元号は断絶状態でしたが、
大宝以降は現在の平成まで途切れることなく続いています。

また、古事記、日本書紀の編纂、藤原京、大宝律令など
これらの背後には中臣鎌足を祖とする藤原氏の存在が見え隠れしており、
その後、天皇に次ぐ権力者として栄華を極めることになります。

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このように聖徳太子、推古天皇から始まり、天智天皇、天武天皇の時代を経て
飛鳥時代を通して、徐々に日本の骨格が築き上げられました。
白村江の戦いの敗北により、大和政権は朝鮮半島から手を引き日本海を境界とします。

中国の王朝は飛鳥時代に随から唐へ変わり、その後幾度も王朝が途絶えますが、
日本国内では数々のクーデターが起こりながらも、皇室は男系男子で現在まで受け継がれています。
蘇我氏は天皇にならなかった聖徳太子の子孫は根絶やしにしましたが、
天武天皇でさえ、天智天皇の子孫は朝廷に引き続き置いていました。
そして、この事が後の皇位継承に大きく貢献することになります。
やはりこれも和の精神の発露であり、
この意味でも中国と日本の分かれ目になったと言えます。

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日本古代史③~聖徳太子と大化の改新~ - 2017.07.09 Sun

●飛鳥時代
崇峻天皇5年(592年)から和銅3年(710年)の118年間にかけて
飛鳥(現:奈良県高市郡明日香村)に宮・都が置かれていた時代が飛鳥時代です。
その草創期は古墳時代終末期と重なり、
戦前は一括して「大和時代」と呼ばれていました。

飛鳥時代は神話から歴史に切り替わる重要な時代であり、
この時代の始まりを象徴する人物が聖徳太子です。
聖徳太子は天皇を中心とした中央集権国家体制の確立を図った
日本古代史の最重要人物です。



聖徳太子の大きな功績の一つが仏教の普及です。
百済王から仏像と経典が献上され、
日本列島に仏教が伝わった時、国内で論争が起きました。
古来からの神道を守り、仏教を排撃すべきとした物部氏
帰化人と近く、仏教を保護しようとした蘇我氏
天皇の仏教帰依の是非について対立したのです。
聖徳太子は蘇我氏側付き物部氏を滅ぼすと、法隆寺や四天王寺を建て、
蘇我馬子も法興寺を建て、飛鳥は仏教の中心地となりました。



蘇我氏と聖徳太子は協力して仏教振興を行いましたが、
物部氏亡き後、政治的実権は蘇我馬子が掌握していました。
そんな馬子を快く思っていなかった崇峻天皇は馬子の暗殺をほのめかしたため、
恐れんだ馬子の差金で暗殺されてしまいます。
長い皇室の歴史の中でも崇峻天皇暗殺された唯一の天皇と言われています。
蘇我馬子は蘇我氏の血を継ぐ推古天皇を即位させました。
推古天皇は日本初の女帝であり、東洋初の女性君主でもあります。
現在、女系天皇容認論や眞子内親王殿下のご婚約に伴う女性宮家の創設など
女性皇族が話題になることが多いですが、
推古天皇は女性天皇であって女系天皇ではありません。
男系男子が皇位を継ぐまでの中継ぎとして即位しましたが、
バランス感覚に優れた人物とされ、
蘇我氏の思惑に関わらず、聖徳太子と蘇我馬子の両勢力の均衡を保ちました。

聖徳太子は推古天皇の皇太子として摂政を行うことになります。
冠位十二階では生まれに関係なく、能力のあるものが役人として出世するシステムを作り、
十七条の憲法では「和を以て貴しと為す」に始まる役人の心構えを示しました。
これらは現在まで脈々と受け継がれる日本式民主主義の発芽でもあります。
仏教を厚く信仰することはもちろんですが、蘇我氏と違うのは尊皇の姿勢でした。
聖徳太子は仏教同様に日本固有の神道も守ろうとしていたのです。
蘇我馬子は自身の利権が損なわれるとして、
太子の行う天皇集権に密かに危機感を抱いていました。

この時代、朝廷が仏教を保護したり、中央集権的な政策を打ち出したのは何故か?
それは何より、隋による300年ぶりの中国統一が背景にあります。
それまで中国が分裂状態であったため、国内政治に集中すればよかったのですが、
中国統一によって強力な国家が生まれ、
朝鮮半島や日本列島を含む地域に政治的軍事的な圧力を強める可能性が出てきました。
日本はこうした危機から独立を守るために早急に中央集権化を進め、
仏教などの海外の優れた文明を受け入れ、
随に向けて優れた文明国である事をアピールしようとした訳です。

聖徳太子は遣隋使として小野妹子を派遣しています。
この時、「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや・・・」と始まる
有名な国書を隋の皇帝煬帝に手渡しますが、これを見た煬帝は激しく怒ります。
「天子」とは中国皇帝のみを指す言葉であり、
他国の王がその名を語ることはあってはならないことでした。
しかし、隋はこの頃高句麗侵攻を予定しており、
日本が高句麗と結びつくことを恐れたため小野妹子も穏便に返されました。

なぜわざわざ怒らせるような真似をしたのか?
これは中国と対等な関係を築きたいという日本側の意思表明であり、
冊封体制の拒絶を意味します。
また当時の微妙なアジア世界のパワーバランスの中で
日本側も最低限友好的に「朝貢」という態勢をとったため
最悪の事態にはならず、中国皇帝も黙認状態となりました。
しかし、遣隋使の一番大きな目的は
随の優れた文明を学んで日本に持ち帰ることだったので、
外交関係を過度に刺激するわけにはいかず、
その後の日中関係は絶妙なバランスを取りながら展開されます。

隋はその後、三度に渡り高句麗遠征を行いますが失敗し、
煬帝が殺されて、わずか二代で崩壊、新たにが興ります。
国内では聖徳太子と推古天皇が亡くなり、再び蘇我氏が専横な振る舞いを行います。
蘇我氏は蘇我氏系の舒明天皇を即位させ、
舒明天皇の死後は皇后が皇極天皇となり再び女性天皇が誕生しますが、
蘇我蝦夷が自ら国政を執り、紫の冠を私用したり、
聖徳太子の子・山背大兄王一族を滅ぼすなど蘇我氏の専横はさらに激しくなります。



蘇我氏に滅亡させられた物部氏と近く、
藤原氏の祖となる中臣鎌足は後の天智天皇である中大兄皇子と共謀して、
蘇我入鹿を皇極天皇の御前で殺害し、その父である蘇我蝦夷を自殺に追いやり、
半世紀にも続いた蘇我氏体制を崩壊させました。
皇極天皇は息子である中大兄皇子に皇位を譲ろうとしましたが、
皇極天皇の弟(孝徳天皇)に皇位を譲り、自らは皇太子として次々と改革を進めます。
これを大化の改新と呼びます。
大化は現在の平成まで続く元号の始まりでした。

孝徳天皇没後も母である皇極天皇(斉明天皇)を再び即位(重祚)させ、
中大兄皇子はまたしても皇太子として政務を行います。
中大兄皇子が長い間皇位につかなかった事は
7世紀中葉の政治史における謎の一つであり、定説はありません。
「天皇になるためクーデターを起こした」という批判を免れるためとも言われますが、
これは完全に聖徳太子を模倣したやり方でした。
日本は大化の改新によって心機一転、天皇を中心とする中央集権化を進めて、
再び新たに興った唐との関係を構築していくのでした。

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このように聖徳太子は西洋史におけるイエス・キリスト並の影響力を誇ります。
それは新約聖書同様に日本書紀のかなりの部分に
聖徳太子の記述が見られることからも明らかであり、
奇しくも両名とも馬小屋で生まれた(厩戸皇子)という伝承があります。
また1984年に発行された福沢諭吉に変わるまで
日本の最高紙幣には聖徳太子が描かれており、
その他の旧紙幣にも採用されるなど現代人にも馴染みの深い存在でしたが、
現在の紙幣には聖徳太子はなく、
福沢諭吉や野口英世などフリーメイソンメンバーが採用され、
近年、教科書で「聖徳太子」の名を排して「厩戸皇子」を使う動きが出たり、
その伝説の数々から非実在論が存在するなど、
国民の記憶から消し去ろうという傾向が見られます。

十七条の憲法の第一条で和の精神を最も重い日本の価値であると定め、
神道と仏教の共存を図った聖徳太子がいなければ今の日本は存在しなかったのです。

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日本古代史②~大和政権の誕生~ - 2017.06.28 Wed

●弥生時代
日本列島にはすでに縄文時代に大陸からがもたらされ
小規模な栽培が行われていましたが、
紀元前四世紀ごろに、大陸から灌漑用の水路をともなう水田を用いた
稲作の技術が九州に伝わりました。
縄文土器より実用的な土器、弥生土器が作られ、
稲作と共に全国に広がっていったこの時代が弥生時代です。



弥生時代は縄文時代とはうって変わり、争いが頻発しました。
稲作により、人々は稲作に適した平地に住むようになり、
共同で作業をするうちに、ムラ(村)を作って生活するようになり、
共同作業を指揮し、祭りを取り仕切る指導者が現れ、身分の差が生まれました。
ムラ同士の交流も盛んになる一方で、水田や収穫物を巡って争いが多発しました。
ムラには柵が作られ、稲作と共にやってきた青銅器や鉄器も手伝って
人々は武器を持ち戦うようになりました。
数々の交流や戦いを経て、やがてムラがまとまってクニ(国)が生まれます。

現在の日本に繋がる「クニ」はいつ頃から存在したのか、
あまり詳しいことはわかっていません。
基本的には大和政権が成立した4世紀頃と言われていますが、
我が国最古の歴史書である「日本書紀」によると
神武天皇(最初の天皇)が即位したのが、紀元前660年2月11日であり、
これが、日本の建国に位置づけられています。我が国の建国記念日もそれに従っています。

紀元前660年と言うと弥生時代前期にあたります。
これは現存する世界最古の国家と言うことになります。
戦前はその建国紀元を基にした神武暦(皇紀)がごく一般的に使われていました。
西暦に660年足した年号なので、西暦2017年の今年は皇紀2677年と言うことになります。

現在では、皇国史観の否定考古学的観点により、
あくまで神話上の建国であると認識されていますが、
アメリカ中央情報局(CIA)のサイトでは日本の項目で
はっきりと紀元前660年に建国されたことが明記されています。
https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/fields/2088.html





戦前の歴史教科書は神武歴を中心としており、
考古学的歴史区分である縄文、弥生、古墳、
そして飛鳥時代もなく、いきなり大和時代から始まっています。

正史と認められている事は、
それらのクニの一部は古代文明が発祥した中国に朝貢していたという事です。
その頃、すでに中国には皇帝をいただく強大な秦や漢のような国家が広い大陸を支配しており、
周囲の諸国に対して臣従を求め、それに応じて朝貢してきた諸国に対して
中国配下の王であることを承認した印を授ける政治的制度(冊封)がありました。
印にはそれぞれランクがあり、中国から「倭」と呼ばれた日本には
「委奴国王」に最高ランクの金印を授けられました。(ちなみに朝鮮や琉球には銀印が授けられた)
3世紀に入ると、30ほどの小さな国家を従えた卑弥呼が統治する強国「邪馬台国」が存在し、
魏に使いを送り、再び、親魏倭王の称号と金印を授かりました。

この頃の中国と日本は、今の反対で、中国のほうが進んだ文明を持っており、
周辺諸国と同じく、日本も中国の冊封体制の中に組み込まれました。
日本はその後も中国の影響を大きく受けました。
しかし、印の位より日本が中国から特別な目で見られていたことは、注目すべきところです。

●古墳時代
日本史最大のミステリーの一つ「謎の4世紀」と呼ばれるものがあります。
4世紀を境に日本列島が一変してしまうのです!

弥生時代の祭祀用具の代表であった「銅鐸」が製造中止。
青銅が中心だった金属器も、「鉄器」が使われるようになる。
更に、彫りが深くがっしりした縄文人に近かった体型が、彫りが浅い大陸系の体型に変化し、
なぜか、それまで行なわれていた「入れ墨」の習慣が消滅。
一番顕著なのは墳墓の変化で、
それまで丘に過ぎなかった墳墓から前方後円墳など複雑な形になり、巨大な墳墓が発生します。
これら古墳が頻繁に作られた時代を古墳時代と言います。

巨大な墳墓ができたと言うことは強力な権力が台頭したことを意味します。
大和政権の成立です。
どのようにして大和政権ができたのか?
それまで日本の大きな勢力であった邪馬台国との関連性は?

実はよくわかっていません。
この頃、中国では内部分裂が起こり、
それまで中国の史書にあった倭国の記述が見られなくなったのです。

元々、日本列島に馬は存在しませんでしたが、
この頃から「馬具」や「埋葬された馬の骨」が大量に出土され、
中国や朝鮮で見られる遺物も出土することから、
大陸から馬を引き連れた民族が日本を平定したのが大和政権の由来だとする
騎馬民族征服王朝説があります。
大和政権が完全なる異民族によるものなのか疑わしいですが、
大陸から人為的に馬が持ち込まれたのは間違いないようです。



仁徳天皇陵は日本最大の古墳であり、
底面積においてはギザのピラミッドや始皇帝陵を上回って世界一の墳墓でもありますが、
宮内庁によって何故か発掘禁止にされ、現在に至るまで学術調査は一切行なわれていません。
これが発掘されれば空白の4世紀が明らかになり、世界史が大きく変化する可能性があります。
でも…謎は謎のままにしたほうがよいのだろうか…^^;
「邪馬台国論争」にしても「謎の4世紀」にしても、やはりこの時代も大きなロマンがあります。

また、この頃は中国の影響力が低下した事で、
冊封を受けていた諸外国で、統一国家への動きが強まりました。
日本では大和政権、朝鮮でも北部に高句麗、南部に百済、新羅が誕生し、
朝鮮三国時代という時代になります。

高句麗がそれまで中国の領土でしかなかった朝鮮半島北部を支配し、
南部の百済にも攻撃しました。百済は大和政権に助けを求めました。
日本列島は古来から鉄の資源のある朝鮮南部と交流があり、
朝鮮南部の任那(加羅)に拠点を築き、百済を助け、高句麗の南部侵攻を食い止めました。
5世紀中頃に、中国では南北朝時代になり、
大和政権は高句麗と対峙して、朝鮮南部との繋がりを維持するために南朝に朝貢しました。
そのころには大和政権はさらに勢力を拡大し、百済と新羅は大和政権の臣民になりました。

6世紀になると今度は新羅が勢力を伸ばして任那を滅ぼし、
大和政権は朝鮮への足がかりを失ってしまいますが、
「日本書紀」に神功皇后が朝鮮を平定し、臣下にしたという「三韓征伐」の話があるように
古来、朝鮮半島に日本の支配が及んでいたことは理解すべきです。
秀吉の朝鮮出兵、西郷隆盛の征韓論、昭和期の日韓併合などの出来事が
単なる突発的な政治判断ではなく、この頃の時代にまでさかのぼれると言うことです。

この時代、大和政権が朝鮮半島の政治に積極的に関与した結果、
朝鮮半島を通じて、中国の進んだ文化が日本にもたらされました。
文化と共に中国・朝鮮から日本に移り住む帰化人が出てきました。

現在の日教組教育では帰化人は「渡来人」と表現されますが、
これは帰化という言葉に現地人と同化する意味合いがあるため
在日朝鮮人などの抗議を受けて
進んだ文化を遅れた地域に伝えるという意味合いで作られた言葉です。
日本の歴史なので主体が日本なのは当然であり、
実際百済は消滅したのだから史実でも帰化が正しいのですが・・・

6世紀には百済王から
仏像と経典を大和政権に献上され、日本に仏教が伝わりました。
その仏教という外国の異教、
そして隋による300年ぶりの中国統一による勢力図の変化が、
この後の日本の歴史をさらに動かしていくことになります。

--------------------------------------------------------------------------------
弥生時代から古墳時代にかけて、
日本列島は中国大陸からの影響を受けつつ、統一国家を建設していきました。
現存する世界最古の国というのは、
君主である天皇による統治が続いていることにあります。

天皇が紀元前660年の弥生前期から存在したかは不明ですが、
第10代崇神天皇や第15代応神天皇からは実在の人物だろうとされています。
そのことを想定しても、世界最古の王朝である事は疑いようがなく、
天皇は世界最古の王朝であり、日本は現存する世界最古の国家となるわけです。

世界の他の王室はフランスのように王制が廃止されるか、
存続しているとしてもイギリスのようにテューダー朝、ウィンザー朝など途切れているのが大半です。
日本では武士が台頭しても、明治維新をしても、
天皇は現在にまで万世一系且つ男系男子で途絶えることなく続いています。

戦後の教育界、考古学会では
皇国史観の否定や神武歴の廃止により、皇室の権威が薄められ、
「騎馬民族征服王朝説」「渡来人」など日本の価値を落として
稲作、仏教、律令制などをもたらした中国、朝鮮半島を必要以上に持ち上げる傾向にありますが、
金印一つとってみても日本が中国から特別な地位を与えられていたことは明らかであるし、
日本が朝鮮半島南部に影響力を保持し、中国と対等に渡り歩いたのは歴史的事実です。
そして、なにより今日に至るまで天皇を守り続けている事が
日本国の権威に繋がっているのです。

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